2015年6月21日日曜日

今田淳子個展 アートスペース貘サイト 元村正信 評より





 
今田淳子 個展
それは磔刑(たっけい)の十字架にさらされた人の化身か、あるいはコウモリの翼のようなものに絡まり咲こうとする花々。でなくば、子宮の告白としての血であり、そこから生まれ出ようとするものの息吹なのか。
ここには、西洋からの疎外と東洋の果てとのはざまで、長い異国での生活という時間のなかで、せめられ問われつづけた作家の、論理や理性に収まり切れない、女性の〈情欲〉といったものが極めて象徴的に吐露されては
いないだろうか。
画廊の四方の壁のひとつだけを使い、天井近くの壁に張り出し、下へ床へと流れ出すようにしつらえた黒い皮や赤い紙、布、糸、銅線といった様々な素材が織りなす、まるで神話から抜け出たかのようなオブジェからは、
習俗、血縁、その息苦しさや煩わしさゆえに、わたしたちがどこかで置き去りにしたままの〈情念〉が、
なまめかしく再来したかのようにも見えた。
じつは僕がこの20年以上、どんな作品(絵画や彫刻を含め、物の配置やそれらが置かれた空間との関係性)を
語るにせよ、さまざまな素材に沿いながらも、「インスタレーション」 という語をほとんど使わずに、むしろ
慎重に避けながら、場合によっては敢えて 「オブジェ」という古い言葉を選んで使っているのにも、それなりの理由があるからだ。
今田淳子の作品もDMの表記にしたがって言うのなら、新作の 「INSTALLATION」 というべきかも知れない。
しかし何度でもいうが、 「INSTALLATION」 と「インスタレーション」 は、異なるのだ。その差異を、
同一のものとして語るには無理がある。その齟齬を無視して粗雑に、一括りに“インスタレーション”と片付け
たくはないからなのだ。そういう平板な語りこそ、日本の、ものみな「アート化」する現在を、無批判に肯定
することにならないだろうか。
今回の今田淳子の 「INSTALLATION」 を、僕は「わたしたちがどこかで置き去りにしたままの〈情念〉」と言ったが、忘れさり葬り去った〈土俗〉の匂いさえ残存させる彼女の仕事は、わたしたちを囲い込む均質で
空虚な「アート」への批判にもなりえていると思うのだが、いかがだろう。
                                                                                     同展は6月21日(日)まで。
元村正信の美術折々より
http://artspacebaku.net/wiki/index.php?元村正信の美術折々

2015年6月12日金曜日

今田淳子個展情報



福岡天神アートスペース貘にて  2015年6月21日まで


インスタレーション EGO(エゴ)

帰国後今田が感じた我と母国日本、人間のエゴイズムによる環境・地球破壊を投影した未発表作品である。
今田は2010年帰国時より皮・布・ガラス・木材・セラミックなどの多素材を使用しながら制作をすすめ、ミクストメディアの「イタリアと日本の花シリーズ」を発表。花に現代の女性の生き方や世相を映す試みをしており、今回のインスタレーションもその流れを汲むものである。

2015年6月3日水曜日

アーティストとは? + 2014年熊本大学ラーニングコモンズ講義内容レジュメ添付


 ミラノのギャラリーのオーナーが10年ほど前にヴィデオをまわしながら「Cosa e` "essere l`artista" per te? アーティストとは?」という質問をぶつけてきた事があります。とっさに「L`artista = Ricercatore della vita アーティストとはVITA (いのち、生きる、生活)の研究者」と答えました。
 帰国して5年半、日本でもさまざまなジェネレーションを対象にワークショップをしました。それぞれのVITA (いのち、生きる、生活)はアート。これからも「2国の生きかたにどっぷりつかり、比較する目を持った存在」として考えを成熟させ発言させていただければと思っています。

以下は昨年の熊本大学ラーニングコモンズ講義内容から。